弁護士の中嶋です。
先日、妻とスタジオジブリの映画「風立ちぬ」を観てきました。
宮崎駿監督は、リベラル・反戦の人だと思っていたので、主人公が、「ゼロ戦」開発者という設定には、少々驚きました。
軍国主義の象徴でもある「ゼロ戦」の開発に絡めてロマンス・ヒロイズムを描くことは、「反戦」「戦争絶対悪」がポリティカル・コレクトネス(政治的に正しいとされている意見)とされる現代においては、違和感を感じる人もいるのではないでしょうか。
この作品の主人公は、これまでの宮崎作品の主人公と同様に純真無垢です。
その純真無垢な主人公が戦闘兵器(そして、太平洋戦争末期には、あまりにも非人道的な使われ方をした兵器)を作ることへの矛盾・不調和を、本作品は、あえて素通りにしているようにも思えます。
しかし、この非人道的兵器の開発者がイノセントであればあるほど、また、主人公をめぐるロマンスが美しければ美しいほど、それがその後の戦争の悲劇性、「ゼロ戦」の非人間性を暗示させ、そしてさらに反転して、生きるということのかけがえのなさを訴えかけてくるのです。
宮崎駿監督が紡いだこの美しい物語は、このような深いアイロニーを秘めており、素晴らしい余韻を与えてくれる作品でした。
アイロニーとは一般的に「反語・逆説」の意味ですが、村上春樹氏の『海辺のカフカ』という作品の次の会話が、そのニュアンスをうまく表現しているので、引用します。
「いいかい……、君が今感じていることは、多くのギリシャ悲劇のモチーフになっていることでもあるんだ。人が運命を選ぶのではなく、運命が人を選ぶ。それがギリシャ悲劇の根本にある世界観だ。そしてその悲劇性は――アリストテレスが定義していることだけれども――皮肉なことに当事者の欠点によってというよりは、むしろ美点を梃子にしてもたらされる。僕の言っていることはわかるかい?人はその欠点によってではなく、その美質によってより大きな悲劇の中にひきずりこまれていく。ソフォクレスの『オイディップス王』が顕著な例だ。オイディップス王の場合、怠惰とか愚鈍さによってではなく、その勇敢さと正直さによってまさに彼の悲劇はもたらされる。そこに不可避的にアイロニーが生まれる」
「しかし救いはない」
「場合によっては、救いがないということもある。しかしながらアイロニーが人を深め、大きくする。それがより高い次元の救いへの入り口になる。そこに普遍的な希望を見いだすこともできる。だからこそギリシャ悲劇は今でも多くの人々に読まれ、芸術のひとつの元型となっているんだ。」
海辺のカフカ・上・343〜344頁(新潮社)
「風立ちぬ」は、美しいロマンスと同時に悲劇性を内包し、さらに普遍的な希望へと導く、まさに「芸術のひとつの元型」ともいえる作品だと思います。
宮崎駿監督が、唯一無二の芸術家であることを再確認しました。
以上
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